先日、気功の教室で呼吸法をやって気持ち良かった~!という経験を粘土で表していました。
造形活動の過程では、楽しかった経験を何度も何度も振り返り、
いろんな面から心の目で見つめなおす喜びがあります。
「幸せとは、お金や名誉ではないよ」
「幸せは、感じることだよ」
そんなふうに人から教えてもらったことを思い出しました。
それが一つの答えだったなら、造形活動は、まさに生きる喜びであり、幸せな活動です。
うれしかったり、楽しかったり、悲しかったり、どん底だと思ったり。
それをただ、深くかみしめること。
なんて豊かなのでしょう。
そんな、誰でもが当然にできそうで、気づけそうなことが、できないで、
幻の幸せを一生懸命手に入れるために必死に頑張る。
私が、自殺したかった頃、まさしく、これが起きていました。
思い出しました。
家庭は、とても厳しく、自分の話をすることもなく、
つらいことがあっても、「そんなの我慢しなよ」と言われ、
骨折しようと、倒れようとも、どんなに苦しくても悲しくても「平気、慣れてる!」と言って、過ごしました。
泣くこともありません。
感情はぬきにして、我慢して「頑張る!」
それが偉いのだと思っていたのです。
自分の苦しいことを、苦しくない、と思うために、ほんとの苦しみや悩みが、何なのかもわかりません。
また、私の中で大切なことは、自分の気もちより、何か思いついたら、それがやっていいことなのか、
やってはいけないことか、人からどう見られるか、の判断が100パーセントを占めていました。
自分がどう思っていいのか、自分がどう感じていいのか、クリアにできません。不安で自信がありません。
自分がどう思うか、よりそのほかの大勢の人がどう思うか、それに合わせようとしていました。(できないことですが)
作文でも、誰でもがかけそうなこと、「これをやって楽しかったです。」「これはいけないと思いました。」
という表面的な感想しか書くことができません。
会話もできません。友達もいません。
何も感じようとしないのですから。
誰かが親切にしてくれても、受け取ることもできません。
優しい言葉をかけられても、感度が鈍りきっています。
私は苦しい毎日を、一人で生きているのだと思っていました。
他人にも親切にできません。
飢え死にしそうでした。
自由に自分の感じることがあっていい、またそれを尊重することの意義、
これを教えてもらったのは、
アレクサンダー・テクニークの教室でした。
教室では、教師のサポートや体を動かしてみて、どう思うか、誰もが自由に感想を述べていました。
「なんだか違う~!」
「ここだけなぜか、気持ち悪かった、誰かが何か言っているような気がする。」
「ここの部分は、ちょっと宇宙人になった気がした」
「前のほうがしっくりきた」
言葉にできない何かを、各自がもっているボキャブラリーで精一杯に正直に言葉にして発している。
その時になって私は、教師が喜ぶことを言わなくてもいいのだ、自分の思ったことを正直に話していいんだ、と初めて知ったのです。
繰り返し、繰り返し、「どう感じた?」と尋ねられ、
常に感じたことを自覚する、意識するという行為ができるようになりました。
私が本当に絵を描けるようになったのは、この時からでした。
楽しかった宮崎旅行、友達がいっぱいいてうれしいなという気もち、葉っぱの形が面白いなあと思う植物。
きれいに描けるとか、形が整ってるとか、関係なく、
感じたことを大事にして、それを信じて描くことでした。
感動した形跡を画面に表せるようになりました。
「誰でも絵が描ける」と美術教育者が言っているのは、
誰でも高いデッサン力がある、ピカソのような絵が描ける、という意味ではないのです。
誰でもが、人間であり、心をもっていて、感じることができる存在。
だから、当然、描けるはずなのです。
あとは、画面に向かう不安をとりのぞくだけなのです。
残念なことに、学校の教育活動の中で、「感じる力」を養うための意識的な取り組みは見られません。
絵の完成、仕上げを求めることが多いと思います。
そのために、画面だけが埋め尽くされても、本当に描きたい絵ではなかった、
納得した絵が描けなかった、自信がない、という思いをする人は多くいます。
自分の受け持った生徒が、将来、造形活動をしなくなっても、
感じる力、喜びだけは、体験して身に着けて、
生涯大切にしてほしい、と思う力です。