人を見ると、怖い、と思う。
なぜか、話す時、目を伏せてしまう。
人がやってくると、顔をそむけてしまう。
こういった様々な、特有の癖や症状は、自分だけじゃないの?
きっと治らないのでは?
ずっと、こんな自分なんだ。
私自身、自分だけの特有な症状は、
手の施しようがなく、一生、こうなんだ、と、あきらめきっていました。
あきらめることで、期待せず、心を安定してすごせる、そう思っていました。
今の例は、すべて私のもっている癖です。
私が今、一番、難解に思っている癖は、意識がとんでしまう癖です。
どこにいっても、どうしても治せないように思いました。
普段から、意識がぼんやりする。
仕事中もぼんやりどこかに行ってしまう。
この悩みはここ4,5年続いています。
私が意識をぼんやりさせてきた理由はこんなことです。
小さいころから「勉強をしないと生きていけないよ」「生活できないよ」と言われ続けてきて、
本当にそうだと信じたのです。
優秀な成績をおさめないと、人間的にだめだ、というようにも思っていました。
そこで、勉強が嫌いな私は勉強をする前に「一度、自分は死んだのだ」と思い、
そう決意して、机に向かうことにしたのです。
それを毎日課していたのです。そのことによって、成績をあげていったのです。
周りは勉強をするので、ほめてくれましたが、
これを繰り返したために、私は、体が嫌がることばかり、要求することになりました。
私は、あらゆる場面で、意識をとばす癖をつけました。
体は怒り、頭を床にうちつけるという症状まで出てきました。
ここまでのことをクリアにするまで、
どうしてこんなにバカだったのだろう、
どうして自分は、こんな環境で育ってしまったのだろう・・
不幸だなあ。。まぬけだなあ。。
考えても考えてもどうしようもない、
数々の、過去への無念な気もちと出会いました。
これはトラウマ解消のワークだろうか、薬だろうか、、何の療法だろうか、
どれで治せばいいのだろうか、悩みました。
でも、私はとりあえず、今やっていることで試せることを試してみました。気功で学んでいる動きをアレクサンダーテクニークを使って、やってみたのです。
私が考えたプランはこのようなものです。
1、特定な動き、動作の中で、意識をとばしていることにまず気づく
これは気功の先生に教わって、横になって膝を曲げたまま、足をばたん、と倒す動きをしました。
2、ゆっくりとそのシンプルな動作を行う。どこの場面でそうなるか、
見つめるためにゆっくりやってみました。
3、意識をとばしている、とわかった場面がわかりました。
足がななめに倒れかかると同時に意識をとばそうとしているのがわかりました。
そこで何ができるか考えてみました。
4、私は、倒れると同時に「周りを見る」ということを意識的にやるようにしました。
意識が遠のいているとき、私は、見えるものを見ないように圧力を自ら自分にかけ、自分の体の機能をストップさせています。
したがって「見る」という自身の体の機能を使い、同時に、意識をとばす癖を抑制してみました。
これをやってみて、
「すごく周りのものが生き生きとして、見えた!」と言いたかったけれど、
ちょっと違ってた。
これまで見てなかった、天井の穴、壁のコンクリート材の性質などが目を通してうつってきました。
こんな形の穴があったのかあ、、、と思いました。
でも、事実が事実により近く見えました。
また、周りを見ているので、
この動きの中で意識をとばさなくてもよくなり、気もちも楽になりました。
きっと似たような動作の時にも使えるのではないかと思いました。
何か特定の癖やおかしな行動、症状は、
誰かの要求にこたえるために、必死で頑張ってやってきたことかもしれない。
「頑張ったね。そこにも、そこにこそ、大切な意味があるんだよ。」
自分が、どんなバカな行動だったと思われても、そう信じて努力してきたのだから。そして、大きくとらえたならば、その経験は、大切な学びの宝庫です。
でも、そのことで今もなお、自分を苦しめていることがあったなら、
もうやめていい。
体がもともともっている力を信じる方向に、素直に導いてあげるんだ!
これを積み重ねていって、平たい平たい階段を登ったり、降りたりしているうちに、
体が応えてくれている日が来るかもしれません。